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高知地方裁判所 昭和60年(行ウ)5号 判決

原告

有田昭五郎

右訴訟代理人弁護士

土田嘉平

被告

地方公務員災害補償基金高知県支部長 中内力

右訴訟代理人弁護士

下元敏晴

主文

一  被告が地方公務員災害補償法に基づき昭和五三年一二月一六日付けで原告に対してした公務外認定処分を取り消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

主文同旨。

二  請求の趣旨に対する答弁

1  原告の請求を棄却する。

2  訴訟費用は原告の負担とする。

第二当事者の主張

一  請求原因

1  原告は、高知県高岡郡越知町立越知中学校(以下「越知中学校」という。)の教諭であったところ、昭和五一年一一月一八日(以下「被災日」という。)午前一一時三〇分ころ、同中学校において勤務中、脳動脈瘤の破裂を来し、くも膜下出血(以下「本件疾病」という。)を発症した。

2  原告は、被告に対し、昭和五二年四月二六日付けで、地方公務員災害補償法に基づき、本件疾病は公務上の災害である旨の認定を求めたが、被告は、原告に対し、昭和五三年一二月一六日付けで、本件疾病は公務外の災害であると認定する処分(以下「本件処分」という。)をした。

3(一)  原告は、地方公務員災害補償基金高知県支部審査会に対し、昭和五四年一月二九日付けで審査請求をしたが、同審査会は、原告に対し、昭和五九年八月三一日付けで右審査請求を棄却する旨の裁決をした。

(二)  原告は、地方公務員災害補償基金審査会に対し、同年九月二八日付けで再審査請求をしたが、同審査会は、原告に対し、昭和六〇年四月三日付けで右再審査請求を棄却する旨の裁決をし、同裁決書の謄本は同年五月一五日原告に到達した。

4  しかしながら、以下に述べるとおり、本件疾病は公務に起因するものであり、これを公務外災害と認定した本件処分は違法である。

(一) 越知中学校における寄宿舎運営の特殊性

越知中学校は、昭和四二年四月野老山中学校を統合し、昭和四四年に小日浦、桐見川、大平、堂ノ岡、横畠の各中学校を統合した新設校であるため、通学区は極めて広く、小日浦地区のように通学距離が一八キロメートル以上の地区もあった。そのうえ、越知町の市街地を除いた周辺地区からの通学路は山道が多く、通学が困難な状況にあることから、八キロメートル以上の通学距離にある生徒のために、昭和四四年四月越知中学校に寄宿舎が設置された。右各中学校の統合に際しては、当時町民から激しい反対運動があり、一時は住民の手による郷立野老山中学校が設置されるなど県教育界にも大きな波紋が投げかけられたが、全国にもまれな公立中学校の寄宿舎設置は、こうした統合反対運動との妥協の産物であった。越知中学校の寄宿舎運営の基本方針に「寄宿舎は舎監教師と寮生徒が常に寝食をともにし、家庭的な雰囲気の中で行われる全人的な教育活動である」とされてはいるものの、寄宿させられる生徒(以下「寮生」という。)にも寄宿させる父兄にも、右寄宿舎を全人的な教育活動の場などと単純に受け止める者は少なく、むしろ、学校統合によって課せられた不利益の受忍という気持ちが常に父兄、寮生の中に伏在し、学校側、殊に舎監ら寄宿舎職員は神経を擦り減らす毎日であった。

(二) 原告の職務内容等

(1) 原告は、昭和五年一二月一二日生まれで、昭和三一年一月高知県長岡郡大豊村立豊永中学校助教諭(昭和三二年四月一日から教諭)に採用されて以来、高知県内の中学校に勤務し、昭和四九年四月越知中学校に赴任した。昭和五一年五月から被災日までの原告の受持授業時間数は、同年八月までが週当たり一六時間(社会科及び理科)、同年九月からが週当たり一〇時間(社会科)であったが、そのほかに、一年B組四二名の学級担任及び第一学年の学年主任として生徒指導に当たるとともに、教務主任(時間割担当)、生徒会生活部顧問、PTA運営委員、郷土研究(文化クラブ)顧問、生徒活動専門部担当、校舎管理(一年B組教室と学年集会所)、学級費集金出納等の業務に携わり、さらに、後述の舎監業務に就いていた。原告の勤務時間は、学校の管理運営規則上、別表1のとおり定められていたが、現実は右に述べたように教科授業以外の「雑務」がぎっしりと詰まっており、それらの業務は多忙を極め、分刻みの仕事に追われる始末で、休憩、休息時間などをとることが全く不可能な状況であった。

(2) 原告は、越知中学校赴任以来、右の教科関係業務以外に、寄宿舎での宿日直業務(以下、寄宿舎での宿直、日直を、それぞれ単に「宿直」、「日直」といい、それらをまとめて「舎監業務」という。)に従事していたが、同中学校に赴任した昭和四九年四月から昭和五〇年度までは週一回の宿直が昭和五一年度から週二回になり、さらに昭和五一年九月からは、舎監長である坂本教頭(越知中学校では教頭職は一般教頭と舎監教頭があり、坂本は舎監教頭であった。)が長期病気休暇の松浦一般教頭の職務を代行することになったことから、原告が事実上舎監長となって週三回の宿直を担当することになり、原告の舎監業務の内容と責任は一挙に加重されるに至った。その結果、昭和五一年五月から同年一一月までの原告の宿直回数は、坂本教頭の五九回より少ない五四回ではあるが、同年九月からをみると、九月が一〇回、一〇月が一三回、一一月が八回と急増した(なお、一一月分は被災日までの宿直回数であるので、ペースとしては一一月も月一三回の割合の宿直をしたことになる。)。

舎監業務の具体的な勤務内容は別表1及び2のとおり定められ、越知中学校寄宿舎日宿直規程四条には、「当直者は勤務中少なくとも三回は寄宿舎内外を巡視し、異常の有無を確かめるとともに、火災、盗難その他の災害予防に注意しなければならない。宿直は、寄宿舎生の人員点呼、学習、生活、保健安全の全般にわたり管理と指導に当たること。非常災害の発生又は寄宿舎生徒に異常の事態のあったときは、応急の処置を講ずるとともに、直ちに校長と舎監長に連絡すること。当直中取り扱った事項は当直日誌に記載し、舎監長及び校長の点検を受けること。」と規定されているが、現実の運営、勤務実態はまことに厳しいものがあった。すなわち、寄宿舎自体が学校統合に絡む問題の産物であったためその運営に神経を擦り減らす状態であったことは前記(一)のとおりであるが、これに加え、越知中学校では生徒の非行が続出し、特に昭和四九年に非行生徒が大量に出てマスコミに取り上げられ、学校教育の抜本的な改革が求められるに至った。これに対し、職員会に対する指導、生徒会に対する指導、父母らによる学年PTAの組織化、PTAに対する指導と援助の積極的推進等が提唱されたが、原告は、県下の生活指導についての研究協議会の役員でもあったことから、本来の教科授業のほかにこれらの諸活動に中心的人物として熱心に取り組み、生徒の非行防止と健全育成に多大の貢献をし、殊に、寄宿舎を生徒指導の場として捉えて舎監業務に積極的に取り組み、週二、三回の宿直をしたうえに宿直でない日にもほとんど毎日、午前六時五〇分の点呼に間に合うように自宅から早朝出勤をした。なお、原告は、昭和五一年五月一日から被災日の一一月一八日までの間、年次有給休暇をわずか〇・五日しか消化しておらず、原告の精勤ぶりの一端を示すものである。

(三) 原告の発症前の勤務状況等

(1) 前述のとおり、昭和五一年九月に原告が事実上の舎監長となったことから、原告の教科授業時間は週一六時間から週一〇時間へと軽減されたが、前記(二)(1)の如き「雑務」の多様さに照らし、右授業時間の軽減は実質的な労働の軽減をもたらさず、逆に宿直が週三回となり、舎監長としての職責を果たさなければならなくなったことは、原告にとって決定的な過重労働を強いる要因となった。これを原告の週当たりの拘束時間の推移によって検討すると、宿直が週二回であった昭和五一年四月から同年九月中旬までの週当たり拘束時間は八三時間一五分、非拘束時間が八四時間四五分であったが(これでも規定の週当たり拘束時間四七時間四五分を三五時間三〇分も上回ることになる。)、宿直が週三回になった九月中旬から被災日直前の週末である一一月一四日までの週当たり拘束時間は九六時間五〇分に激増し、規定の週当たり拘束時間を四九時間五分も上回り、所定の勤務時間の二倍を超えている。

(2) 松浦教頭の長期病気休暇に加え、北川政治校長が昭和五一年一一月三日から同年一二月五日まで西欧へ海外出張を命じられて長期不在になるという事態が重なったため、右一一月は舎監団七名が五名に減少し、松浦教頭が同年九月一五日まで週二回宿直していたのがゼロ、北川校長が同年九月、一〇月ともに宿直六回であったのが一一月はゼロとなる有様で、原告は今までになかった舎監一名(毎週金曜日)の宿直を行わなければならなくなり、右両名の不在による舎監業務の過重は著しいものがあった。そのうえ、学校運営の面でも校長と一般教頭が不在という事態がもたらす困難と後に残った教師集団の学校運営責任の負担の大きさは、教育現場を知らない者にはなかなか理解できないほどの精神的疲労をもたらすものであった。

(3) 右のような状況下、原告は、昭和五一年一一月八日ころ、身体の不調を自覚し、休憩時間に診察を受けるべく山崎病院に赴いたが、病院が混んでいたため受診せずに帰校した。原告は、被災日の二、三日前、生徒の行動に問題があるとして、教頭の指示のもとに午後八時から九時ころまでの夜間生徒宅を訪問して生徒の母親と面接した。被災日の前日である一一月一七日には、午前中の勤務に引き続き、午後一時から越知町公民館において越知町青少年健全育成会議の議長を務めたが、右会議は、教職員やPTA父母を相手としたものではなく、町長、町議会議員、一般住民が参加した公式な会議であり、原告はその重責を果たすためかなり緊張し、精神的疲労を受けた。原告は、右会議終了後、午後五時から舎監業務に就いたが、午後九時ころ寮生が病気になったためタクシーで病院に同行し、治療を受けさせて午後一〇時三〇分ころ戻ると、他の寮生五、六名も感冒、頭痛を訴えたため、その看病に当たり、就寝は午前三時となった。

(四) 本件疾病の発症

原告は、被災日当日、午前六時過ぎころ起床し、午前八時三〇分ころ登校して勤務中、午前一一時ころ気分が悪くなり、宿直室で休んでいたが、同僚教諭に頭痛を訴え、呼吸も荒くなり、午前一一時三〇分ころには意識不明となったため、直ちに医師の往診を受けた結果、本件疾病が診断された。診察時の原告の血圧は最高血圧が二三〇、最低血圧が一二〇(血圧の単位は本判決中すべてミリHgである。また、以下に最高血圧と最低血圧を併せて表示するときは、「二三〇/一二〇」というふうに記載する。)であった。原告は、同日宿直室で看護を受け、翌一一月一九日高知県高岡郡佐川町の病院に入院したが、手術を要することから、同月二七日高知市内の病院に転院し、同病院において破裂脳動脈瘤と診断されて入院を続けた。

(五) 原告の健康診断結果等について

原告が昭和四八年に受けた職員健康診断の結果によれば、血圧は一三八/八〇であり、地元の山崎病院における受診歴は、

(1) 初診年月日 昭和五〇年七月七日

病名 上肘神経痛、脚気症候群

備考 血圧一四〇/九〇、主訴背痛、睡眠不足

(2) 初診年月日 昭和五〇年一〇月二一日

病名 上気道炎

であった。また、原告の被災日当時の体重は五八キログラム、身長は一五一センチメートルであり、飲酒については宴会時に付き合い程度に飲むくらいで、喫煙はしていなかった。

(六) 公務起因性の判断基準について

(1) 地方公務員災害補償法にいう「公務上の災害(疾病)」とは、公務に起因する疾病をいい、公務に起因するというためには、公務と疾病との間に相当因果関係があることを要するが、公務遂行が疾病の唯一の原因である必要はなく、既存の疾病(基礎疾病)が原因で新たな疾病が生じた場合であっても、公務の遂行が基礎疾病を誘発し又は増悪させて新疾病を発症させるなどそれが基礎疾病と共働原因となって結果を招いたと認められる場合には、職員がかかる結果の発生を予知しながらあえて公務に従事する等災害補償の趣旨に反する特段の事情がない限り、右新疾病と公務との間には相当因果関係があると解すべきである(共働原因主義)。

(2) 行政解釈

〈1〉 昭和三六年二月一三日基発第一一六号労働省労働基準局長通達「中枢神経及び循環器系疾患(脳卒中、急性心臓死等)の業務上外認定基準について」(以下「旧通達」という。)は、本件のような脳・心臓疾患が業務上の災害とされるためには、「業務に関連する突発的又はその発生状態を時間的、場所的に明確にしうる出来事、もしくは特定の労働時間内に過激(質的又は量的に)な業務に就労したことによる精神的又は肉体的な負担(災害)」が発病の「直前又は発病当日に認められること」として、いわゆる災害(アクシデント)主義の立場を採用していた。そして、本件処分もこの立場に立ち、原告の基礎疾病を増悪させるような公務上の突発的又は異常な出来事があったことは認められず、勤務上の労働負担と本件発症との間に医学的因果関係の存在も認められないとして、本件疾病を公務外のものと認定した。このような立場に立てば、基礎疾病→業務に基づく疲労→くも膜下出血という一連の因果関係を主張する場合にはその救済は例外中の例外たらざるをえなくなる。すなわち、旧通達の立場からすれば、第一に、災害的出来事(アクシデント)の存在を業務起因性の認定に当たり不可欠のメルクマールとし、「災害のない単なる疲労の蓄積であったのみでは、それの結果を業務上の発病又は増悪とは認められない」としており、第二に、脳動脈瘤は自然的経過の中で脳出血をする可能性を一方で有しているから、この可能性を否定するに足りる「顕著な業務上の出来事による著しい身体的、肉体的負担」の認められない限り、公務外となるからである。しかしながら、業務による著しい疲労(過労)も、それが回復されずに蓄積される場合には、一定の限界を超えることによって循環器機能の急速な障害をもたらすことがありうるのであって、こうした点からすれば、災害的出来事のみが労働者の有する基礎疾病の緩慢な進展状態を著しく促進、増悪させるとの考えは妥当性を欠くといわざるをえない。旧通達の災害主義を批判し、基礎疾病を有する労働者の脳出血、心臓死のケースについて、共働原因主義の立場に立って労働者を救済する下級審の裁判例が続出したが、人事院及び労働省も次に述べるように、昭和六二年一〇月二二日付け人事院事務総局職員局長通知「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の公務上の災害の認定について」(以下「新指針」という。)及び昭和六二年一〇月二六日付け基発第六二〇号労働省労働基準局長通達「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定基準について」(以下「新基準」という。)をもって、災害主義の立場を改めるに至った。すなわち、新指針及び新基準(以下「新指針等」という。)は、脳・心臓疾患につき、災害主義を変更して、「発生状態を時間的場所的に明確にしうる異常な出来事に遭遇したこと」もしくは「日常業務に比較して特に過重な業務に就労したこと」のいずれかによる「業務による明らかな過重負荷」を、「発症前一週間以内」に受けたと認められることという過重負荷主義を採用した。新指針等は、過重負荷の存否を「発症前一週間」の業務内容を基準として判断することとしているが、これは、「発症直前又は発病当日」に過激な業務に就労していたかどうかを基準に臨床医学的に判断すべきものとしていた旧基準とは異なり、その間の業務量のみならず、業務内容、作業環境などを総合して判断するというものであり、また、発病前日までの過重な業務による心身の興奮、緊張の重積を、発病直前又は当日における災害の強度を増大する付加要因として考慮するにすぎず、災害のない単なる疲労の蓄積があったのみではそれの結果を業務上の発病又は増悪とは認めないとしていた旧基準を根本的に変更したものである。人事院職員局補償課による新指針についての説明資料によれば、旧認定指針は突発的出来事等と質的、量的に過激な職務による精神的、肉体的負担(事故等)の存在を主要な認定要件としていた。具体的には、個別事案ごとに血管病変等の増悪や発症に対する過激な職務の寄与の度合を、発症の機序(メカニズム)を医学的に解明することを通じて、相互に複雑に関連している素因・基礎疾病等と生活環境因子との寄与の度合と分別し、もって公務に起因していることを明らかにして公務との相当因果関係を推認するものであったが、これを公務災害の認定上の見地から考えると、認定事務の迅速性に難があるとともに、公務過重性の評価の斉一性を欠くおそれがあったため、新指針は、過重な職務による負荷によって発症する脳・心臓疾患を列挙することとし、認定要件としての負荷を、「発症前に、職務に関連してその発生状態を時間的、場所的に明確にしうる異常な出来事に遭遇したことにより又は日常の職務に比較して特に質的にもしくは量的に過重な職務に従事したことにより、医学上当該脳血管疾患及び虚血性心疾患等の発生の原因とするに足る精神的又は肉体的負荷」としたものである。また、新指針等は、「日常業務に比較して特に過重な業務に就労したこと」による「業務による明らかな過重負荷」を「発病前一週間以内」に受けたと認められない場合であっても、一週間程度を超えて長期間に従事した「過重な職務遂行による相当程度の疲労の蓄積又は精神的負担の継続によって発病した」脳・心臓疾患については、業務による諸種の継続的な負荷、なかでも心理的負荷である外部の要因(ストレッサー)が中枢神経系、内分泌系の変調を来し(ストレス)、その総合効果が循環系に影響を及ぼし、発作の引き金役を果たすことが十分に考えうる(昭和六二年九月八日付け労働省における「脳血管疾患及び虚血性心疾患等に関する専門家会議」報告書)ため、業務上外の認定の際には、個々の事例について担当行政庁と「協議」もしくは「稟伺」を経ることとし、過重労働による脳・心臓疾患について初めて業務上認定の途を開いた。

〈2〉 しかしながら、新指針等は災害主義から過重負荷主義へ変更したとはいえ、過重負荷を「日常業務に比較して、特に質的にもしくは量的に過重な業務に従事したこと」に限定するかのように解説しているのは問題である。旧基準が、従来の業務内容に比し、過激な業務への従事を要求していたのを、日頃から過重業務を行っている者に対し厳しすぎるのでこれを改善するというのが、改正の趣旨であったからである。さらに、新指針等が過重負荷労働期間を一週間に限定したことは極めて問題である。旧基準が「発症直前もしくは発症当日」に「過激な業務に就労したことによる精神的又は肉体的負担」(災害)が当該労働者に認められることを要件としたことの不当性は、その非科学性にあった。労働省の専門家会議報告書でも、「医学経験則上、これらの過重負荷によって脳血管疾患及び虚血性心疾患等の急性発症に深く関わることが明らかにされている」と述べており、過重負荷が「発症直前もしくは発症当日」に認められた場合に限定して業務との関連性を認める医学上の根拠がないのと同様に、これを一週間に限定して業務との関連性を認める医学上の根拠は何もない。新指針等は「基礎疾患又は既存疾患があった場合には、職務による精神的又は肉体的負荷は脳血管疾患及び虚血性心疾患等の自然的発症又は自然的増悪に比し、著しく早期に発症し又は急速に増悪させる原因となったとするだけの強度を有することが必要である」とするが、基礎疾患又は既存疾患があった場合であっても、「著しく早期に発症又は急速に増悪」が認められなければ業務上の疾病たりえないとする合理的根拠は存在せず、発症の促進又は増悪が認められれば足りるというべきである。

(3) 右のとおり、行政解釈は、災害主義から過重負荷主義に変更した点で評価できるが、同時に右(2)の〈2〉のとおりまだ不十分である。公務起因性の判断については、前記(1)の共働原因主義をとるべきであるが、新指針等は、基本的には、近年における脳・心臓疾患の医学的知見の進展、現在に至るまでの同疾患事案の重積によって得られた医学経験則及び過重な職務による負荷に対する評価の蓄積等を基礎とし、精神的、肉体的負荷と負担との関係を医学的見地から明確にして、「過重負荷」の要件を設定したものであるから、公務起因性の判断においても、右「過重負荷」の持つ意義を十分考慮すべきである。

(七) 本件疾病の公務起因性

(1) 本件疾病は脳動脈瘤の破裂によるものであるが、脳動脈瘤には先天性のもののほか、細菌性、梅毒性、動脈硬化性のものがあり、動脈硬化にはストレスが大きな影響を持っていることは周知のことである。また、労働内容が肉体的、精神的に過重な負担となって疲労が蓄積し、その結果大脳、自律神経系への負担が極めて大きくなると、血圧調整機能も疲労状態となって日常的に血圧の急激な上昇や下降が起こりうると推定されており、これが脳動脈瘤の成長に重大な役割を果たし、動脈瘤の破裂を促進するのであって、疲労や睡眠不足などの慢性ストレスが本件疾病に重大な影響を及ぼすものであることは明らかである。また、慢性ストレスはくも膜下出血の直接的誘因になるとする研究論文も出されている。

(2) 原告は、前記(二)及び(三)で述べたように、昼間の学校業務に加えて舎監業務を兼務し、特に昭和五一年五月から発症の月である同年一一月までの間に宿直回数は五四回を数え、同年九月からは月一〇ないし一三回のペースで宿直を行っていた。これは、新指針でいう、特別な必要により、日常の職務(本件では教科業務)に比較して勤務時間及び業務量の面で特に過重な職務の遂行を余儀なくされた場合に該当する。しかも、新指針は、職務の過重性を評価するに当たっては、職務内容、作業環境から総合的に判断するとしているが、思春期、成長期を迎えた中学生男女を夜間舎監として監督、指導するという職務内容、作業環境こそ、原告にとって「過重負荷」そのものであり、原告は慢性のストレスを受けていたのである。なお、新指針のように、発病前一週間を職務の過重性を判断する主たる期間と限定しても、原告の過重労働の実態をみれば、発症前一週間の状態も、それまでの慢性ストレスと重なって、明らかに過重負荷であり、精神的、肉体的ストレスとなるものであったといえる。

(3) したがって、本件においては、原告に、脳動脈瘤という基礎疾患があったとしても、右のような過重負荷によるストレスと共働して本件疾病を発病させたものということができ、公務と疾病との間に相当因果関係を認めることができるのに、これを否定した本件処分は違法である。

5  よって、本件処分の取消を求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1ないし3の各事実は認める。

2(一)  請求原因4の(一)の事実について

越知中学校寄宿舎が通学困難な生徒のため昭和四四年度から設置されたことは認める。

統合当時原告主張のような紛争があったにせよ、本件疾病の発生は統合より七年余り経過した後のことであり、この時点で、舎監ら寄宿舎職員(学校側)と寮生、父兄とが対立緊張関係にあったことを窺わせる資料はない。また、公立中学校の寄宿舎設置は、当時高知県下でも数校あったのであるから、越知中学校のそれが全国的にも稀なものであったとはいえない。

(二)  同4の(二)の事実について

(1) (1)の事実につき、原告の生年月日、勤務歴、受持授業時間数、原告が一年B組四二名の学級担任及び第一学年の学年主任として生徒指導に当たり、さらに舎監業務についていたこと、原告の勤務時間が別表1のとおり定められていたことは認める。原告の主張する「雑務」は、年度当初に校長が諸般の事情を考慮して各教員に分担させており、それが毎日長時間を要する性質のものでないことは明らかであって、原告主張のように、「それらの業務は多忙を極め、分刻みの仕事に追われる始末で休憩、休息時間などは全くとることが不可能な状況」であるとは考えられない。

(2) (2)の事実につき、冒頭から「週三回の宿直を担当することになり」までの部分、昭和五一年五月から同年一一月までの原告及び坂本教頭の宿直回数、舎監業務の勤務時間が別表1のとおりであること、宿直中の舎監は、勤務中午後七時一〇分ころと午後八時一〇分ころの二回各室を巡視し、学習状態について指導し、就寝前の午後一一時三〇分ころ寄宿舎内外を巡視し、玄関、各階の非常階段、一、二階の廊下側の窓等の鍵を確認する等少なくとも三回寄宿舎内を巡視し、火災、盗難等の災害予防、管理と寮生の学習、生活の指導等に当たり、非常災害が発生しあるいは寮生に異常事態が発生した際には、応急の処置を講ずることとされていたことは認める。

生徒の非行は、昭和四九年ころがピークで昭和五一年ころにはほぼ収まっていたものである。

(三)  同4の(三)の事実について

(1) (1)の事実につき、原告主張の「雑務」の性質については前述のとおりであり、昭和五一年九月からの舎監業務の増加に対しては、受持授業時間を原告主張のとおり大幅に減らして校務分担の公平が計られたのであり、同月からの舎監業務の増加が決定的な過重労働を強いる要因になったということはできない。原告主張の拘束時間には、寄宿舎での睡眠時間、舎監室待機時間等の具体的に業務自体を遂行していない時間が含まれていることや、受持授業時間数が少ないため比較的自由な時間が多いことを考慮すれば、拘束時間数で業務の過重性を論ずるのは妥当ではない。

(2) (2)の事実につき、昭和四九年度の舎監業務は原則一名での宿直であって、原告は一名だけの宿直をすでに経験済みであり、また、本件疾病が発生した昭和五一年一一月中、原告一名で宿直したのは同月五日の一回だけであり、他の舎監も同様に一名による宿直を行っていた。校長の不在が他の教員の負担になった事実はない。

(3) (3)の事実につき、昭和五一年一一月八日ころ原告が病院に行ったこと、被災日の二、三日前に家庭訪問をしたこと、同月一七日午後一時から越知町青少年健全育成会議が開かれ、町長、町議会議員、一般住民が参加し、原告が議長を務めたこと、同会議終了後午後五時から同僚教諭とともに舎監勤務についたが、午後九時ころ寮生一名が発熱したためタクシーで病院に同行したこと、午後一〇時三〇分ころ戻ったところ他の寮生五、六名も風邪をひいていたため、時々部屋を見て回り、午前三時ころ就寝したことは認める。原告が一一月八日ころ病院に行ったのは、特にどこが悪いという症状があったわけではなく、疲れたという感が強かったことから体の状態を把握するため血圧測定に行ったものである。また、右家庭訪問で特に紛争があった事実はないし、一七日の会議が紛糾した事実もなく、議長を務めたことが特に負担になった事情はない。

(四)  同4の(四)及び(五)の各事実は認める。

(五)  同4の(六)について

(1) (1)につき、地方公務員災害補償法にいう「公務上の災害(疾病)」とは公務に起因する疾病をいい、公務に起因するというためには、公務と疾病との間に相当因果関係を要すること、公務起因性認定のためには公務遂行が唯一の原因である必要はないことは認める。しかしながら、本件のように基礎疾病が増悪して新疾病が発症した場合には、公務の遂行が基礎疾病の増悪と新疾病の発症に対して単に影響があるというだけでは足らず、医学上の経験則に照らし、公務の遂行が相対的に有力な原因として作用して基礎疾病を急激に増悪させ、新疾病発症の時期を著しく早める等共働原因となって新疾病を発症させたと認められる場合に、公務の遂行と新疾病発症との間に相当因果関係があるといえるのである。

(2) (2)につき、〈1〉は、旧基準が原告主張のような「災害」を要求していたこと、本件処分も旧基準と同様の立場に立ち、本件疾病を公務外と認定したこと、新指針及び新基準が新たに制定されたことは認め、その余は争う。〈2〉は争う。

なお、原告は、公務災害補償制度が「災害主義」から「過重負荷主義」に変わり、認定の基本方針までもが変更されたかのように主張をするが、旧基準は、急激な血圧変動や血管収縮を起こし血管病変等をその自然経過を超えて急激に著しく増悪させるものとして「災害」を掲げていたところ、新指針等は、急激な血圧変動や血管収縮を起こし血管病変等をその自然経過を超えて急激に著しく増悪させうる負荷として「過重負荷」を掲げ、医学経験則上評価される業務による明らかな過重負荷を判断の要件としたものである。したがって、旧基準における「災害」と新指針等における「過重負荷」とは、血管病変等の急激な増悪に関連するという医学的観点からは全く同趣旨のものであり、認定に当たっての基本的な考え方はいずれにおいても何ら変わるものではない(労働省「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の認定マニュアル」)。また、新指針が、過重な職務の遂行による相当程度の疲労の蓄積又は精神的負荷の継続によって発症したとする脳血管疾患及び虚血性心疾患等について、人事院事務総局職員局に協議し、個別に公務上外を認定するものとしているのは、最新の医学的知見によっても脳・心臓疾患発症の機序との関係が明確ではなく、したがって職務過重性の評価等認定に必要な要件の設定が困難であるので、このような事案が生じた場合には、人事院において十分に専門的立場からの検討を加えようとしているものである。また、原告は労働省専門家会議報告書の一部を引用しているが、同報告書は、業務による諸種の継続的な負荷、中でも心理的負荷と脳血管疾患及び虚血性心疾患等の発症との関連について、「これらの継続的な心理的負荷については、リスクファクターとしても記載したように、その関連性が推測されているが、反面、継続的な心理的負荷に対する生体反応には著しい個体差が存在すること、継続的な心理的負荷は一般生活にも同様に存在することなどに加え、心理的負荷と発症との関連の詳細について医学的に未解決な部分があり、現時点では、過重負荷として評価することは困難であると考える。」としている。

(3) (3)は争う。

(六)  同4の(七)について

(1) (1)は争う。原告の脳動脈瘤は先天性のものであり、疲労や睡眠不足等の慢性ストレスは脳動脈瘤の破裂の直接的誘因にはならない。

(2) (2)も争う。新指針がいう「日常の職務に比較して特に質的にもしくは量的に過重な職務」とは、「通常に割り当てられた職務内容に比較して特に過重な職務」をいうのであり、原告の場合、前述のとおり、昭和五一年度当初から、週二回の舎監業務が勘案され受持授業時間が少なくなっており、同年九月からの週三回の舎監業務についてもさらに受持授業時間が少なくなって校務分担の公平が計られているのであって、他の職員と同様の教科業務を遂行したうえで舎監業務に従事したものではないから、原告の舎監業務は新指針にいう「通常に割り当てられた職務内容等」に該当するものである。また、原告の舎監業務の職務内容、作業環境が「過重負荷」となっていないことは後述のとおりである。

(3) (3)も争う。

三  被告の主張

以下に述べるように、本件疾病は公務に起因するものということはできない。

1  公務起因性の認定基準について

(一) 地方公務員災害補償法にいう「公務上の災害(疾病)」の認定については、地方公務員災害補償基金理事長から各支部長に示達した昭和四八年一一月二六日付けの公務災害認定基準がある。右基準の疾病の部は、(1)公務上の負傷に起因する疾病、(2)公務災害認定基準に掲げる職業病、(3)その他公務に起因することが明らかな疾病の三群に分けられ、以上のような場合に発生した災害は、原則として公務上の災害となるが、これらの場合においても、故意又は本人の素因によるもの、天災地変によるもの、偶発的な事故によるものは、公務外となるとされている。右(1)については、「公務上の負傷に起因する疾病は公務上のものと」するとされ、右(2)については、「当該疾病に係るそれぞれの業務に伴う有害作用の程度が当該疾病を発症させる原因となるのに足るものであり、かつ、当該疾病が医学経験則上当該原因によって生ずる疾病に特有な症状を呈した場合は、特に反証のない限り公務上のものとする。」とされ、右(3)については、右(1)及び(2)に「掲げるもののほか、公務に起因することが明らかな疾病は公務上のものとし、これに該当する疾病は次に掲げる疾病とする。」としてアからシまでの疾病を掲げ、その最後のシで「アからサに掲げるもののほか、公務と相当因果関係をもって発生したことが明らかな疾病」と規定されている。右基準は、昭和四八年一二月一日以降に発生した事故に起因する災害の公務上外の認定基準として多くの先例を積み重ねてきているだけでなく、労働者災害補償保険法、国家公務員災害補償法においても、ほぼ同様の基準を制定し、業務上外、公務上外の認定がなされてきているところである。

(二) 本件疾病は脳動脈瘤の破裂によるくも膜下出血であるが、脳動脈瘤は、脳血管の先天的な異常により発生するものであり、何らの誘因なしに破裂し、くも膜下出血を来すことは医学上周知のことである。本件のような疾病が前記(一)の基準の(3)のシに該当するものとして公務上の災害と認められるためには、具体的には、当該被災職員の発症前に特に過激又は異常な職務による過度の精神的、肉体的負担が存在していること、しかもそれらの事態が、その性質及び程度において医学上当該疾病発症の原因とするに足りるものであり、かつ、それらの事態と当該疾病発症までの時間的間隔が医学上妥当なものであることが必要であって、また、発症前日までの職務による精神的、肉体的疲労の蓄積が認められる場合は、当該疲労を前記発症直前又は発症当日における事態の程度を増大する付加的要素として考慮すべきものである(旧通達参照)。

そして、本件疾病が公務上の疾病と認められるためには、従来の公務内容に比し質的又は量的に著しく超過した過度の身体的努力や精神的感動が、一過性の血圧亢進を惹起したことが医学的に判定しうる程度の、公務に直結する災害的事実として認められて初めて、公務と疾病との間に相当因果関係があるものとしてこれを公務に起因して発病したものということができるのであって、ただ単に公務遂行中に発病したというだけでは公務起因性は認めることはできない。

(三) もっとも、公務起因性の認定のためには公務遂行が唯一の原因であることを要するものではなく、本件のように基礎疾病(脳動脈瘤)が増悪して新疾病(くも膜下出血)が発症した場合であっても、単に公務の遂行が基礎疾病の増悪と新疾病の発症に対して影響があるというだけではなく、医学上の経験則に照らして、公務の遂行が相対的に有力な原因として作用して基礎疾病を急激に増悪させて新疾病発症の時期を著しく早める等共働原因となって新疾病を発症させたと認められる場合には、公務の遂行と新疾病発症との間に相当因果関係があるものと解される。しかしながら、職員が公務とは関係のない基礎疾患又は既存疾病を有しているが公務に支障のない程度の状態にあった場合に、何らかの原因で新疾病を発症し又は公務を遂行しているときにこれを発症したとしても、その多くは自然的な経過又は加齢等の現象によるものであると考えられ、また、公務の遂行自体が多かれ少なかれ精神的、肉体的な緊張又は負担を常時伴うものであるから、公務起因性を医学経験則上客観的に認定するためには、前記(二)のような災害的出来事の存在が必要であり、かかる災害的事実の存在を捨象するときは、公務上外の認定それ自体の客観的公正さが確保されえないものとなる。

(四) 昭和六二年一〇月労働省と人事院は脳血管疾患・心疾患について、新たな業務上外、公務上外の認定基準である新指針等を制定したが、旧通達における「災害」と新基準における「過重負荷」とは医学的観点からは全く同趣旨であり、認定に当たっての基本的な考え方に変わりがないことは請求原因に対する認否において述べたとおりである。新指針等は、説明資料とともに関係機関から地方公務員災害補償基金に参考資料として通知され、同基金も、各支部における今後の認定に当たっての参考として「脳血管疾患及び虚血性心疾患等の公務起因性の判断のための調査事項」を作成し、新指針等とともに各支部に通知した。右基金は、「基金だより二五五号」において新指針等の要点を紹介するとともに、「これらの点について、地公災では従来から発症直前のアクシデントに限定せず発症前一週間より前の業務等において通常と異なる公務の有無、超過勤務の状況等詳細な調査を行ったうえで医学的意見を求め、それを基に公務上、外の判断を行ってきており、今回の国公災、労災の改正により、特に認定についての考え方を変える必要はないものと考えている。」と付記している。

2  原告の公務による負担

(一) 教職員の配置状況等

高知県教育委員会は、公立義務教育諸学校の学級編成及び教職員定数の標準に関する法律七条に基づき「校長、教諭等配置基準」を作成し、これに基づき公立義務教育諸学校の教職員の配置をしている。昭和五一年度の越知中学校の規模は、普通学級九(生徒数三三九名)、特殊学級一(生徒数一名。この場合にも一学級として教員を配置する。)で、その規模に応ずる教員数(校長を含む。)は右基準どおり一八名を配置し、さらに、同校は収容生徒数四〇名以上の寄宿舎を有する学校であったため級外教員として二名を配置し、その他の教職員として補導員一名(授業なし)、研究指導員一名(授業六時間)、保健衛生員一名(授業なし)、事務職員一名を配置していた。したがって、特定の教職員に原告主張のような激務を強いる配置でないことは明らかである。

(二) 勤務状況等

越知中学校における教職員の校務分担は、同校校長が諸般の事情を考慮して公平に行っている。

原告の受持授業時間は、昭和五一年度当初週一六時間で社会科と理科を担当していたが、舎監業務が週三回になった同年九月から週一〇時間で社会科のみとなっており、越知中学校における非舎監勤務教員の受持授業時間が週平均二一・二時間、他の舎監勤務教員のそれが一八時間であったことに照らしても、原告の舎監業務を勘案して受持授業時間数が削られ、校務分担の公平が計られていたことは多言を要しない。

越知中学校の寄宿舎には、管理人(寮母)一名、調理員二名が配置されており、舎監業務は校長以下七名の教職員が担当し、寄宿舎の管理と運営に当たる舎監長には寄宿舎担当の教頭が当てられ、その他の舎監は校長が命ずることとされ、また、自主自立の気風育成等のため、寄宿舎運営組織の一部として寮長、室長、室長会、各種委員会(図書、生活、美化、入浴、給食、保健)等を置き、自主的に運営するものとされていた。舎監業務は、寮生の生活、学習全般の管理指導に当たることとされ、午後五時の宿直開始から翌朝八時過ぎの登校時まで詳細にわたっているが、中学生ともなれば生活の細部についてまで常に指導する必要はないし、寄宿舎には室長会等寮生の組織があり、ある程度の生徒の自主的な運営が行われていた。また、寮生の数は、昭和四五年度から四七年度まではいずれも六四名で、四八年度六二名、四九年度五七名、五〇年度五四名、五一年度四二名と順次減少しているが、級外教員の配置は二名のままで舎監業務の負担は順次軽減されている。多数の難しい年代の寮生を指導監督することは、ある程度の精神的負担を伴うものであることは認めるが、その代替措置として原告の場合受持授業が軽減されており、精神的な緊張を要する授業時間が減少することによって勤務全体としての負担の軽減が図られていたことをも勘案すると、原則として二名の舎監で行われる舎監勤務がそれほどの精神的、肉体的負担を生ずるものとは考え難いし、疲労の蓄積を生ずるような過重なものとはいえない。

また、原告は一般の職員と異なり、学校の冬、春、夏休みのときは舎監業務もなく休暇をとることができたのであり、原告主張のように疲労が蓄積するとは考えられない。

(三) 原告の公務による負担

右のように、越知中学校の教職員の配置は特定の教職員に激務を強いるようなものではなく、また、舎監業務が過重な精神的、肉体的負担、疲労の蓄積を生じさせる程の過重なものであったとは認められない。また、本件疾病の発生前日の会議で議長を務めたことも、その会議の状況からして精神的、肉体的負担を生ずるものとはいえず、その夜の生徒の発熱等による睡眠不足も、過度の精神的、肉体的負担を伴う異常な出来事と判断することもできない。結局、いずれの点からしても本件疾病前に原告に特に過激又は異常な公務による過度の精神的、肉体的負担が存在し、あるいは発生前日までの公務による疲労の蓄積があったとは認められない。

3  本件疾病について

本件疾病は脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血であるところ、脳動脈瘤の発生原因については、脳動脈瘤の大部分が先天的に発生するものと考えられているものの、未だ定説はない。しかしながら、外的要因としての精神的、肉体的疲労等は直接成因としては作用しない。また、原告の眼底検査、脳血管撮影等の臨床検査結果を知り、開頭手術により脳動脈瘤を視認している近森病院医師が本例は種々の理由から先天性のものと考えられるとの所見を示していることから明らかなとおり、原告の脳動脈瘤は先天的な脳血管の素因に基づくものである。

また、脳動脈瘤の破裂の機序についても必ずしも明らかでなく、破裂は何らの誘因もなく起こることが多いが、急激な(一過性の)血圧上昇が関与している場合が存することが推認される。破裂の原因として最も可能性の高いものは、脳動脈自体の加齢現象と高血圧の関与であると考えられ、血圧の急激な上昇が脳動脈瘤破裂を誘発すると考えられるところ、急激な血圧上昇をもたらすような偶発的ストレスは破裂の誘因となると考えられるが、過労や睡眠不足等の持続的ストレス負荷は破裂の直接的誘因とならない。なお、原告に高血圧症の既往はない。

これら本件疾病の特質と前記2で詳述した原告の公務による負担等を併せ考えると、原告のくも膜下出血は、脳動脈瘤という同人に内在する先天的素因に基づき、自然的経過又は加齢現象により発生したものであると考えるのが自然であって、公務と本件疾病発症との間の因果関係は明らかでなく、ましてや、前記1の(一)の認定基準が要求する「公務と相当因果関係をもって発症したことが明らかな疾病」に該当しないことは明白である。したがって、本件疾病を公務外とした本件処分は正当である。

四  被告の主張に対する認否

被告の主張はすべて争う。

第三証拠(略)

理由

一  請求原因1ないし3の事実はいずれも当事者間に争いがない。

二  1 原告の経歴

原告が、昭和五年一二月一二日生まれ(被災日当時四五歳)で、昭和三一年一月に中学校助教諭(昭和三二年四月一日から教諭)に採用されて以来、高知県下の中学校に教員として勤務し、昭和四九年四月に越知中学校に赴任したことは、当事者間に争いがない。

2 原告の職務内容等

(証拠略)の結果のうちこの認定に反する部分は、他の証拠に照らし採用できず、他にこの認定を覆すに足る証拠はない。

(一)  学校での業務

昭和五一年度の越知中学校は、一学年三クラスの普通学級(生徒総数三三九名)と養護学級一クラス(生徒一名)の生徒構成で、教職員として、校長一名、教頭二名(うち一名は舎監長として寄宿舎の運営に当たる者で、以下、これを「舎監教頭」、もう一名を「一般教頭」という。)、教諭一九名、養護教諭一名、事務職員一名のほか、用務員一名、本校給食調理員三名、寮母一名、寄宿舎調理員二名が配置されていた。教職員の勤務時間は別表1のとおりである。(教職員の勤務時間の点は当事者間に争いがない。)

原告は、昭和五一年度の受持授業として第一学年の社会科と理科を一週一六時間割り当てられたほか、一年B組四二名の学級担任及び第一学年の学年主任を担当し(以上の事実は当事者間に争いがない。)、時間割担当の教務主任として補欠授業の割振りを行った。また、文化クラブである郷土研の顧問をしたほか、生徒会専門部会の生活部担当として花壇や植込みの手入れを行い、PTA運営委員として年間二〇回程度PTAの会合に出席した。昭和五一年度の各教諭の週受持授業時間は別表4(略)のとおりである。

(二)  舎監業務

越知中学校は、昭和四二年四月に野老山中学校を、同年六月に小日浦、桐見川、大平、堂ノ岡、横畠の各中学校を統合し、高知県高岡郡越知町越知字西川窪甲一九一五番地に新校舎が建設されたが、右統合のため著しく通学困難となった生徒を収容してその通学負担を軽減するとともに、僻地教育の向上改善を図る目的で、昭和四四年四月右同町越知字林屋敷一四〇六番地に寄宿舎が新築設置された(寄宿舎が通学困難な生徒のため昭和四四年度から設置されたことは、当事者間に争いがない。)。

寄宿舎は三階建で、寮生の部屋が一階に二室、二階及び三階にそれぞれ七室あり(一室には四名収容可能。)、一階及び二階に舎監室が各一室、三階に寮母室が一室あり、一階の寮生の部屋は寮生の数が多いときにのみ使用され、二階に男子生徒、三階に女子生徒を収容していた。昭和五一年度の寮生は、一年生一六名、二年生一六名、三年生一〇名の合計四二名であり、寄宿舎には、管理人(寮母)一名と調理員二名が配置され、校長、教頭二名及びその他の教諭で構成される舎監団が舎監業務を行い、寄宿舎の管理と運営の中心となる舎監長には舎監教頭が当てられていた。舎監団に属するその他の教諭については、年度初めの職員会議において、自発的に申し出た者を校長が指名したが、舎監業務を嫌う教諭が多く、自発的に申し出る者は少なかった。昭和五一年度の宿直の割当は、原則として、別表3(略)のとおり定められていたが、同年九月からは後述のように変更になった。

舎監業務の勤務時間は別表1のとおりであり、宿直者は、午後七時一〇分ころと午後八時一〇分ころの二回各室を巡視し、学習状態について指導した後、就寝前の午後一一時三〇分ころ寄宿舎内外を巡視し、玄関、非常階段、一、二階の廊下側の窓等の戸締りを確認するなど、少なくとも三回寄宿舎内を巡視し、火災、盗難等の災害の予防と寮生の学習、生活指導等に当たり、非常災害が発生しあるいは寮生に異常事態が発生した際には応急の措置を講ずることとされていた(以上の事実は当事者間に争いがない。)。寮生は、日曜祝日など学校が休みの日の前日には授業終了後親元に帰り、休み明けの朝寄宿舎に出て来ていたが、休校日に試合がある運動部の寮生が自宅に戻らず、寄宿舎に泊まることもあり、その場合は宿直が必要であった。宿直の具体的な業務内容は別表2のとおりとされていたが、消灯時間後も、高校受験や学内の定期テストの準備のため学習を希望する者に食堂や自室において学習することを許可していたため、宿直者の就寝が午前零時以降になることも稀ではなかった。寮生は、消灯時間後も騒いだり、ラジオを聴いたりするため、宿直者は適宜見回りをする必要があり、また、寮生間で窃盗問題が発生したり(昭和五一年七月五日、同月一二日)、女子生徒の異性交際のことで家庭に連絡することもあった(同月二一日)。寄宿舎には、寮長、室長、室長会、図書委員会、生活委員会などの寮生の自治的組織があったが、それらが舎監団の指導監督を必要としない程度に機能していたと認められる状況にはなく、昭和四九年ころは一人で行うのが原則であった宿直が、一人では負担が大きいとして、昭和五一年には二人で行うのが原則とされた。また、労働組合が、宿直の負担の大きさを問題視し、負担軽減のため教員を増員するよう交渉したこともあった。

3 発病までの勤務状況(証拠略)

(一)  原告は、須崎市内の自宅からバイク、汽車、バイクと乗り継いで片道約一時間弱で越知中学校まで通勤し、同中学校において、前記2(一)のとおり学校業務に従事したうえ、寄宿舎で前記2(二)のとおり勤務した。原告は、生活指導についての県下の研究協議会の役員であり、元来、生徒指導に熱意を有していたが、越知中学校に赴任して以来、同校で問題となっていた生徒の非行防止と健全育成に中心的に取り組み、昭和五一年ころには生徒の非行はほとんど皆無になるまでに至っていた。原告は、越知中学校における生徒指導に精力を注ぎ率先してこれを行い、また、同校に赴任するまでは経験がなかった舎監業務についても、これを生徒指導の場として捉えて積極的に取り組み、宿直でない日にも早朝寄宿舎に立ち寄り、ほとんど毎日、朝の点呼(午前六時五〇分)に出席し、寮生とともにラジオ体操をした後登校するなど、寮生の生活指導に熱心であった。舎監長である坂本教頭は、原告の右のような早朝出勤に対し、原告の身を案じ、原告に無理をしないようにと声をかけていた。

ところで、昭和五一年九月、一般教頭である松浦教頭が病気で勤務できなくなり、舎監教頭である坂本教頭が松浦教頭の職務を補填する必要から、坂本教頭の舎監業務を減少させ、その負担を原告が引き受けることになった。その結果、同月一六日から、松浦教頭の宿直はなくなり、また、坂本教頭の金曜日の宿直がなくなって、原告に水曜日の宿直が加わり、原告が坂本教頭の舎監長を代行することになったほか、教務関係業務を大幅に受け持つようになったが、この舎監業務等の増大の代償措置として、原告の受持授業から理科がはずされ、一週一〇時間に受持授業が減少した。各教諭の五月以降についての宿直回数は別表5(略)のとおりであり、原告が昭和五一年九月から宿直した日は別表6(略)のとおりである。また、原告は、同年一〇月九日以降同年一一月一三日まで六週連続で土曜日の日直をしている。(坂本教頭が松浦教頭の職務を補填するようになった経緯、そのため原告が昭和五一年九月から事実上舎監長となって週三回の宿直を担当するようになったこと、これに伴う原告の受持授業の変更、昭和五一年五月以降の原告と坂本教頭の宿直回数は、当事者間に争いがない。)

(二)  原告は、昭和五一年一一月八日ころ、疲労感を覚え、校医である山崎医師の診察を受けるべく、休憩時間を利用して山崎医院に赴いたが、混んでいたため受診せずに戻った。また、被災日の二、三日前、受持クラスの生徒の行動に問題があるとして、教頭の指示により、学校から約一キロメートル離れた生徒宅に午後八時ころ家庭訪問をし、午後九時ころ帰った。(右のそれぞれの日に原告が病院に行き、家庭訪問をしたことは当事者間に争いがない。)

(三)  昭和五一年一一月一七日(被災日の前日)、原告は、午前中は学校で勤務し、午後一時から越知町公民館において越知町青少年健全育成会議(町長、町議会議員、一般町民等三〇名前後が参加。越知中学校からは坂本教頭、原告及び溝渕教諭が出席した。)の議長として会議の司会をした。右会議終了後、午後五時ころから坂本教頭と二人で宿直に就いたが、午後九時ころ、寮生の一名が風邪で熱を出したため、原告は、右寮生を病院に連れて行こうと思い、予め病院に電話をして診察を申し込んだが、深夜のため容易に応じてもらえず、三番目に電話した町内の病院でやっと診察の了解をえ、同病院に右寮生をタクシーで連れて行き、受診後の午後一〇時三〇分ころ帰寮した。その夜は、他にも数人風邪をひいた寮生がいたため、その看病に当たり、就寝は午前三時ころとなった。(右会議が開催され、原告が議長を努めたこと、原告は、右会議終了後午後五時から二人で舎監勤務についたこと、午後九時ころ寮生一名が発熱したためタクシーで病院に同行したこと、午後一〇時三〇分ころ帰寮したこと、他の寮生五、六名も風邪をひいていたため、午前三時ころ就寝したことは、当事者間に争いがない。)

(四)  原告は、被災日は午前六時過ぎころ起床し、寮生とともに清掃作業をしたが、気分がすぐれず、肩がつかえ、頭重感があり、食欲がなかった。午前八時二〇分ころ登校し、平常勤務についていたところ、午前一一時ころ気分が悪くなり、学校の宿直室で休んでいたが、頭痛を訴え、呼吸が荒くなり、午前一一時三〇分ころには意識不明となるに至り、直ちに医師の往診を受け、本件疾病が診断された。診察時の血圧は二三〇/一二〇であった。原告は、同日は宿直室でそのまま看護を受け、翌一九日隣町である佐川町の病院に入院し、手術のため同月二七日に高知市内の病院に転院したが、同病院において本件疾病が脳動脈瘤の破裂によるものと診断された。(原告が午前六時過ぎころ起床したこと及び登校以降の事実は当事者間に争いがない。なお、登校時刻については、午前八時三〇分であることに当事者間に争いがないが、証拠上、午前八時二〇分と認められる。)

4 原告の健康状態等

原告の発病当時の体格が、身長一五一センチメートル、体重五八キログラムであること、嗜好については、宴会等で付き合い程度に飲むほかは飲酒をせず、喫煙もしていなかったこと、昭和四八年の職員健康診断では原告の血圧が一三八/八〇であったこと、前記山崎医院に対する受診歴が、

(一)  受診日 昭和五〇年七月七日

病名 上肘神経痛、脚気症候群

備考 血圧一四〇/九〇、主訴背痛、睡眠不足

(二)  受診日 昭和五〇年一〇月二一日

病名 上気道炎

であったことは、当事者間に争いがない。

(証拠略)の結果によれば、原告は、もともと頑健でむしろ体力には自信があるほうであり、以前は疲労感のために医師の診断を受けるということはなかったところ、越知中学校に赴任し、生徒の非行防止や舎監業務に精力的に取り組みだしてからは、疲労感を強く感じるようになり、教壇でふらついたり、白墨を持つ手が震えたりしたため、赴任してから被災日までの間に数回医師の診察を受けたが、医師から特にどこが悪いと指摘されたことはなかったこと、昭和五〇年一二月に山崎病院で血圧測定をしたが、このときは一三六/八二であり、被災日までに高血圧症の既往はもちろん血圧が高いと指摘されたこともないこと、しかしながら、本件疾病の前ころ、血圧が高いかもしれないと体の不調を同僚に時々漏らしていたことが認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。なお、(証拠略)は、発病前の原告に悪い様子はみられなかったと原告の同僚が供述した旨の記載があるが、その供述内容が抽象的であり、これをもって前記認定を左右するものとはいえない。

5 脳動脈瘤破裂の機序とストレス

本件疾病は脳動脈瘤の破裂によるくも膜下出血であるが、(証拠略)によれば、次の事実が認められ、この認定を覆すに足る証拠はない。

(一)  脳動脈瘤の発生

脳動脈瘤の発生原因については未だ定説はない。中膜欠損等による先天的な脳動脈壁の脆弱部に動脈圧(血圧)等の血行力学的負荷が加わって発生するとする考え方が一般的であるが、ラットを用いた実験で、脆弱部がなくとも高血圧状態にすると相当な割合で脳動脈瘤の発生がみられた例があり、先天的な脆弱部の存在は脳動脈瘤の発生頻度を著明に増加させるが必要条件ではないという見解もある。

(二)  脳動脈瘤の増大

脳動脈瘤の増大過程は二つの時期に大別することができる。最初の段階は動脈瘤発生から破裂準備状態と考えられる大きさに至るまでであり、この段階について、いつごろからどのくらいの速度で動脈瘤が増大してきたかを観察することは困難である。次の段階は危険サイズ(人間の場合直径四ないし六ミリメートル)あるいは最初の破裂からさらに増大していく又は致死的な破裂に至るまでの過程であり、この段階については、臨床的あるいは病理組織学的に多くの研究がなされている。それらによると、動脈瘤壁の局所的な脆弱化によって娘動脈瘤(動脈瘤壁に形成された二次的動脈瘤)が形成されることにより動脈瘤の増大が起こると考えられているほか、動脈瘤によって形成された血腫が器質化し、仮性動脈瘤が真性動脈瘤の一部になっていくことにより増大が起こる場合も報告され、また、明らかな出血発作を起こさずに動脈瘤壁内出血を繰り返すことによって成長していくことも示されている。しかしながら、脳動脈瘤の増大の機序については、発生原因と同様、十分に解明されたとはいえず、ただ、脳動脈自体の加齢現象と血行力学的負荷が重要な関与を有していることが認められている。

(三)  脳動脈瘤の破裂

脳動脈瘤の破裂の機序についても、確立された医学的知見はないが、排尿・排便・咳嗽、精神的緊張時などのような血圧上昇が容易に推測される挙動時に破裂することが多く、血圧の急激な上昇が破裂を誘発するものと考えられている。もっとも、睡眠中に破裂することも報告されているが、睡眠中であっても血圧の変動が考えられるため、睡眠中の破裂に血圧が関与していないとはいえない。ただ、動脈瘤先端に極めて壁の薄い娘動脈瘤があり今にも破裂寸前の状態であれば、わずかな動脈瘤壁の変化や血行力学的負荷で破裂することが考えられ、その意味では血圧の急激な上昇が必ずしも破裂の必要条件であるわけではない。このような破裂寸前の状態の場合には、脳動脈瘤からは少量の血液がくも膜下腔に滲み出、そのために頭痛や体のだるさを感じるといった前駆症状がある場合が多いとされる。

(四)  血圧の変動

血圧はたとえ安静に横になっている状態でも刻々と変動しており、正常血圧の者でさえ、最高血圧について一五ないし四〇、最低血圧について五ないし二〇の変動がある。平素血圧が高い者では、変動が、最高血圧で一〇ないし九〇、最低血圧で五ないし三〇に及ぶことが知られている。このような血圧の変動は、女性より男性の方が、正常血圧者より高血圧者の方が、若年者より高齢者の方が著しい。日常生活においても、朝の覚醒時、洗面時、食事時、排尿・排便時、階段昇降時、他人との会話時、咳嗽・くしゃみ時などには血圧の一時的上昇が認められるほか、寒冷刺激や過度の肉体労働、強度の精神的ストレスなどによっても血圧の変動がある。通常の場合の血圧の日内変動は、睡眠中、特に覚醒直前である午前五時、六時というころが最も下がり、起床すると急激に上昇し、午前一〇時、一一時ころで最も高くなるが、出勤して稼働するなどにより精神的ストレスを受けると、さらに血圧の変動が加味される。

(五)  ストレスの作用

自律神経の中枢がある視床下部は、脳幹部あるいは前頭葉と密接な繊維連絡を保って、血管の収縮や拡張、血液凝固能、血糖値、副腎皮質ホルモンの分泌などの自律神経作用を調節しているが、もし過度の肉体的、精神的ストレスが人体に負荷されれば、前頭葉や脳幹部も容易に興奮し、視床下部にその刺激が伝達されて血圧や心拍数の増加を引き起こすものと考えられ、これらの交感神経系の興奮は高血圧症ではより増幅されるといわれている。

一般に、ストレスは、急激な肉体的、精神的緊張といった急性の負荷である急性ストレスと、疲労の蓄積や睡眠不足などの慢性の負荷である慢性ストレスとに分けることができるが、前者が急激な血圧の上昇をもたらすことに異論はなく、血圧との関係で通常論ぜられるのはこのストレスである。しかしながら、慢性ストレスも、それ自体が急激な血圧の上昇をもたらすわけではないものの、高血圧状態を持続的に作り出す重要な要素となり、そのことがまた血圧の上昇を加速し、血圧の変動を増幅させる下地を作り出すと考えられる。したがって、慢性ストレスは、脳動脈瘤の発生と増大に促進的に作用するということができ、また、破裂の引き金となる血圧の急上昇の加速剤になるという意味でも、脳動脈瘤の破裂を間接的に誘発するものといえる。

慢性ストレスと脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血との関連を窺わせる調査例としては、浜松労災病院の半田肇医師らが行った調査があり、これによれば、調査対象となった脳動脈瘤破裂によるくも膜下出血の患者には、三ないし六か月の期間にわたる、過重肉体労働、就業時間の不規則さ、責任・精神的負担の増加などの慢性ストレスを発症前にかなりの程度受けている者が多く、さらに発症前の身体の不調、高血圧症の既往といった要素も多くの患者に認められている。

三  以上の事実に基づき、本件疾病が公務上の疾病といえるかどうか判断する。

1  地方公務員災害補償法に定める「公務上の災害(疾病)」とは、公務に起因する疾病をいい、公務に起因するというためには、公務と疾病との間に相当因果関係があることを要するが、右の相当因果関係があるというためには、必ずしも公務の遂行が当該疾病発症の唯一の原因である必要はなく、被災職員に特定の疾病に罹患しやすい病的素因や基礎疾患があり、それが当該疾病発症の条件となっている場合であっても、医学上の経験則に照らして、公務の遂行が右病的素因を刺激し又は基礎疾患を急激に増悪させて当該疾病の発症の時期を早める等その病的素因や基礎疾患と共働原因となって当該疾病を発症させたと認められる場合には、被災職員がかかる結果を予知しながらあえて公務に従事するなど災害補償の趣旨に反する特段の事情が認められない限り、公務と当該疾病との間に相当因果関係があるものと解するのが相当である。このような観点から以下に相当因果関係の有無につき検討する。

2  まず、証人森惟明の証言によれば、原告の脳動脈瘤については、病理組織学的検査がなされていないため先天性のものか動脈硬化性のものか確定できないことが認められるが、前記二の5の(一)に認定した一般的見解に照らせば、原告の脳動脈瘤も、先天的な動脈壁の脆弱部に動脈圧等の血行力学的負荷が加わって発生したものと推定される。この脳動脈瘤の発生自体に公務の遂行が寄与したのか否かについてはこれを明らかにする証拠はない。

3  次に、前記二の3の(四)で認定したように、本件疾病発症時には原告の血圧は二三〇/一二〇と著しく高くなっているけれども、それまでに高血圧症の既往歴がなかったことからみても、このような著しい高血圧が慢性化していたとは認め難いので、原告の脳動脈瘤の破裂時に急激な血圧の上昇があったものと考えられる。したがって、この急激な血圧上昇が直接の原因となって、原告の脳動脈瘤が破裂したということができるが、その血圧の急上昇に公務が関与しているのか、また、破裂段階まで脳動脈瘤が増大したことに公務が関与しているのかが問題となる。

ところで、前記二の2及び3に認定した事実により、原告の公務遂行状態を検討すると、原告の業務内容は学校業務と舎監業務であるが、昼間の学校業務終了後引き続いて宿直に就き、中学校生活に入ったばかりの一年生から進学就職問題を抱えた三年生までの男女生徒を全生活領域にわたり指導監督することはかなりの精神的、肉体的負担を伴うものであったことは容易に推測でき、しかも宿直終了後さらに引き続いて通常の学校勤務に就かなければならないことに照らせば、宿直による労働負担は相当重いものであったと考えられる。このことは、前記認定のとおり、越知中学校において宿直を嫌う教諭が多かったこと、それまで一名で行っていた宿直を昭和五一年から二名でするのが原則とされたこと、労働組合が宿直の負担過重を問題視していたこと等によっても窺うことができる。そして、原告はそのような負担の大きい舎監業務に前記二の3のように精力的に取り組んでおり、殊に昭和五一年九月一六日以降は舎監業務等が増大したうえ、舎監長の代行という責任も加わったため、肉体的、精神的疲労が慢性化していったものと考えられる。原告の舎監業務等の増大については、これに伴いその受持授業が一週一六時間から一週一〇時間に減少されており、この点に関し、被告は、原告の右受持授業時間数は、他の非舎監勤務教員の受持授業時間の平均である一週二一・二時間や、他の舎監勤務教員の受持授業時間の平均である一週一八時間と比べ相当少ないことを指摘しているけれども、教室で自己の専門分野の教科の授業をすることは、授業経験の豊富な原告にとって、その負担の程度が舎監業務に比べ低いものと考えられるうえ、受持授業が減少してもそれが休息時間に変わるわけではなく、前記認定のとおり、教科関係業務は増大しており、受持授業が減少した時間帯も勤務時間中として授業以外の業務に従事しなければならないことなどを考えると、右の受持授業の減少は、前記の舎監業務等の増加による原告の負担を補うに十分ではなく、したがって、そのような受持授業の減少があったにもかかわらず、原告の業務負担は増大したものというべきである。原告が疲労感のために一一月八日ころわざわざ病院に赴いたことは、業務による肉体的、精神的疲労が相当に蓄積されていたことを示すものといってよい。右にみたところによれば、昭和五一年九月中旬以降の原告の業務内容は、それ以前の業務内容と比べて相当程度その負担が増大し、それが約二か月間継続したため、同年一一月中旬には、原告は、疲労の回復が困難な慢性的な疲労状態となっていたものと認められる。

しかるところ、原告は被災日前日の会議で長時間にわたり議長を務めているところ、一般に会議の議長は議論の調整、時間配分等会議の進行に常に配慮しなければならないものであることを考えると、原告はこれによって右慢性的な疲労状態に加えてさらに相当な精神的疲労を受けたものと推測される。この点につき、原告は、本人尋問において、議長は度々やるから右会議で議長を務めたこともそれほどの疲労はなかった旨供述しているが、この供述が当該会議から一一年余りも経った後のものであること、本件処分に対する審査請求書(〈証拠略〉)にはこの会議の議長をやったことで疲れきっていた旨記載されていること等に照らし、右供述は措信し難い。また、右会議に引き続いて宿直に従事し、夜間寮生が発熱してその対応に追われ(この間、病院に受診を申し込んだが容易に応じてもらえず、三軒目の病院でやっと了解を得て、タクシーで寮生を連れて行くなどした。)、その結果就寝が午前三時ころになったことは、原告にとってかなりの肉体的、精神的疲労になったものと考えられる。

以上のとおり、前記二の2及び3に認定した事実に照らせば、原告は、公務に精力的に取り組んできたが、殊に昭和五一年九月一六日以降、舎監業務等が増大したため肉体的、精神的疲労が蓄積し、被災日前日ころには慢性的疲労状態に陥っていたところ、被災日前日にさらに疲労が深まる出来事が重なり、その結果、被災日には疲労の蓄積が深刻な事態にまで達していたものと推認できる。なお、被告は、原告ら教員には、学校のいわゆる春、夏、冬休みに休養がとれるから疲労の蓄積は考えられない旨主張しているが、原告の舎監業務が増大したのは、二学期に入った九月一六日以降であり、前記業務内容からすると、その後本件疾病の発症までの二か月余りの間に疲労が蓄積し、慢性的疲労状態になったとしても不自然ではない。

4  これを前記二の5で認定した事実に照らして検討すると、原告は、右のような慢性的疲労状態となり、これが原告の血圧及び脳動脈瘤に悪く作用し、また血圧の変動による悪影響を増幅させる要因となって、これに血圧を急激に上昇させる何らかの要因が働いて本件疾病の発症に至ったと解することができる。また、前記二の4で認定したように、原告は飲酒、喫煙は慎み、従来頑健で体力に自信があり、昭和五〇年一二月ころまでは正常な血圧状態であったなど、脳動脈瘤破裂の背景事情として良好な状況にあったのに、本件疾病を発症するに至っていることは、やはりその後の公務の遂行による慢性的疲労が本件疾病に対して相当程度影響しているとみざるをえない。この点に関し、同じく二の4で認定したように、原告は業務によって疲労感を感じるようになった後、教壇でふらついたり、白墨を持つ手が震えたりしたため医師に受診したが、特にどこかが悪いとの指摘は受けなかったことが認められ、原告がこれまで医師から高血圧を指摘されたことがないことに照らせば、右受診時にも血圧が高いとの指摘がなかったものと思われるが、このふらつき等の原因が何らかの特別な疾患によるものであり、かつそれが本件疾病に関与しているか否かにつき、これを疑わせる証拠はないから、この事情をもって、疲労の蓄積が血圧の急上昇の要因となったとする推論を左右するものではない。もっとも、本件においては、血圧が急上昇した直接の要因が何であったかは必ずしも判然としないが、発症時刻が血圧の日内変動のピーク時とされる時間帯に一致していること、発症直前には、原告は通常の学校勤務に従事しており、発症時における血圧の急激な上昇を説明できる突発的出来事や何らかの疾患を窺わせるに足りる証拠はないこと等を併せ考えると、被災日に原告が起床して以降、日内変動のピーク時とされる午前一一時ころに向かい血圧が上昇したが、前記慢性的疲労による持続的高血圧状態により、血圧上昇の幅が著しく増幅されて、本件疾病の発症時には前記二三〇/一二〇という異常な高血圧になり脳動脈瘤が破裂するに至ったという推測も十分可能である。

5  以上を総合して考えると、原告の脳動脈瘤の破裂については、原告の従事していた公務が共働の原因になっていたものといってよく、原告が本件疾病の発症を予知しながらあえて公務に従事したなど災害補償の趣旨に反する特段の事情を認めさせる証拠もないから、原告の公務と本件疾病との間には相当因果関係があるものと解するのが相当である。

四  以上の次第で、本件疾病を公務外の災害であると認定した本件処分は違法であり、その取消を求める本訴請求は理由があるから、これを認容することとし、訴訟費用につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 山脇正道 裁判官 佐堅哲生 裁判官 政岡克俊)

別表1 勤務時間

〈省略〉

別表2 舎監の勤務内容

〈省略〉

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